[blog]人間っていうのは死んでしまうとこんなものなのか
ちょっと前にだいぶ調子がよくなってきたとか書いていたのである.
あれから2週間ほどが経過したのだが,そのときはよくなりそうな気配があったものの,そんなときにかぎって急な用事が飛び込んできたりするものである.
しかも,そういうときにかぎってよくない情報が舞い込んでくるのだ.
ようは訃報である.
(注:このあとはけっこう寂しくなってしまうような内容なので気分が落ち込んでいる方や体調の悪い方は読み飛ばしてください)
最初は4月10日に「悲しいお知らせをしなければなりません」というメールがあったのだが,私はそのメールに返信をしなかった.
信じたくなかったからである.
そして心のなかで「ウソだ.ウソであってほしい」と思い続けていたのだが,そんな思いもむなしく「急な話なのですが、明日4月20日(木)12時から葬儀をすることになりました」という連絡が来たのが4月19日の午後12時58分.
私はその日はちょうどバイトだったのだが,バイトが終わってからあわてて自宅に戻り,急いで礼服に着替え,千葉の五井というところで営まれた葬儀に参加したのである.
ちなみに亡くなられた方というのは44歳の男性で元N山書店の編集部に在籍し,その後出版社を渡り歩き,現在は自分の会社を立ち上げていたらしいのだが,去年ごろからぷっつりと連絡が取れなくなっていたというのを風の噂で聞いていた.
そして私はその方とは仕事上での付き合いはなかったものの,N山書店の草野球チームで知り合い,その方が誰彼となく気を遣ってくれる方だったので,会って酒を飲むたびに話を盛り上げてくれ,私も故人と一緒にいるととても楽しく,故人も私のことを気にかけていてくれていたので,仲良くおつき合いさせていただいていたのである.
いま思うとその方はいつも酒の席ではバカなことをいって場を盛り上げて笑顔ではしゃいでいたのだが,よくよく思い返してみると顔は笑っているものの,その瞳はなぜか憂いを帯び,どこか寂しそうに微笑んでいたのが,いまでもつい先日のことのように思い出される.
私はカトリックのことはよくわからないが,カトリックの教規でいうとどうやら故人は天国へは召されないらしい.
そしてその事実が残された私たちの一番の心残りな部分でもある.
葬儀場に集まった現N山書店,元N山書店の人のなかには「なんで自分に相談してくれなかったのだ? 自分じゃなくても誰でもいいから相談してくれればよかったのに……」と何度もうわごとのようにつぶやいている人もいたが,私には誰かに相談したからといって故人の悩みが解消される,もしくは解消されたとは到底思えない.
そして葬儀場で故人に最後のお別れをした元N山書店のK村さん(むろん私も知り合い)が
「……君の悩みを聞いてあげることができなかったボクは友人失格です.そんなボクを君は許してくれますか?」
といっているのを聞いて,「ああ,人間っていうのはなんて儚くてもろい存在なんだ」というようなことを思いながら,雨が降りしきるなか葬儀場から火葬場へ向かい,待合室で現N山書店,元N山書店の人たちとテーブルを囲んで,故人の生前の楽しいエピソードを引き合いに出しながら,やけに苦いなと思いつつわびしくビールを飲んだのである.
実は私は通夜や葬式には何度か行ったことはあるが火葬場に行ったことはなく,むろん焼かれたあとの骨を拾ったこともなかったので,骨を骨壺に納骨する際に
人間っていうのは死んでしまうとこんなものなのか……
とかなりショックを受けたりとか,生きるっていうのはどういうことなんだ? そして死ぬっていうのはどういうことなんだろう? などといろいろと考えさせられたりもしたのだが,そんなことを思っている間に火葬場から車で東京駅まで送ってもらうことになり,もうお決まりというか当然のように東京駅近くの居酒屋に入ったのである.
で,場所を転々と変えつつ,最初は8人だったのが2人になるまでひたすら酒を飲み続け,自宅に戻ってきたのが夜中の12時30分.
そして徹夜明けと気が滅入っているのと深酒のトリプルパンチですっかり体調を崩してしまい,あとに残ったのは得も言われぬむなしさとぶり返してしまったひどい風邪のみであった.