[blog]「何が分からないかが分からない人を相手にする場合」にご返事


先日、こんなトラックバックをいただきました。

何が分からないかが分からない人を相手にする場合 ひとりごと/ウェブリブログ
http://yas-toro.at.webry.info/200512/article_5.html


上記を大変興味深く拝見させていただき、冒頭のこの部分のご指摘

読んで思ったのだが、これは結構微妙な問題な気がする。分かっている人は分かっているからこそ、もっと余裕を持って覚えれば良いと思うだろうが、全く何が何か分からない人には、とにかく何が何だか分からない訳で、そこを分かれというのは分かっている者だから言える事だと思う


を読んですぐに「ああ、まったくそのとおりだ。自分では絶対にしないようにしていたつもりだったのに自分もその轍を踏んでしまったのか」と自分の未熟さを痛感したのです。

それというのも以前にこのblogにも書いたのですが(d:id:totsugeki:20051116)、私自身なにをするにもとても覚えが悪く、私になにかを教えようとする人間はみんな苦労をするのですが、そんな私がいまこうやって仕事をやっていけるのは、ひとえにそんな私に仕事や社会人としての生き方や考え方を辛抱強く教えてくれた恩師の方々のおかげであり、いままで幸運にも私はいろんな方に師事することができ、ほとんど一方的に育てられてきたわけですが、その恩師の方たちのおかげで私は自分の覚えの悪さや自分が鈍いということを自覚しており、「世の中にはそういう人間もいるのだ」というのは十分に認識していたつもりだったのです。

ですが、そんな私のあまっちょろい認識など一足飛びに飛び越えてしまうような人間がいま目の前に存在していて、なおかつ仕事を教えなくてならないというのは私にはとてもショックだったのです(こんなことを書くと「お前は何様だ?」と思われるかもしれませんが)。

それというのはたんに私自身が自分は覚えが悪いというのを踏まえたうえで「自分が理解するのにこれくらいかかったから、彼女にはこれくらいいえばわかるだろう」という自分と相手との相対的な比較でしかなかったわけですが、彼女に仕事を教えるようになってからそんな認識は粉々にうち砕かれてしまいました。

そのおかげでいまでは自分の視野というか世界が広がったことをとても感謝しておりますが、よく考えると彼女はこの会社に(雑誌の)経験者ということで入社してきたわけで、ということは彼女に仕事を教えた人間が存在しているということになり、そう考えると自身の勉強不足と思いやりのなさを痛感しているとともに「ああ、世の中はなんて広いんだ」ということをつくづく実感しております。

あと、これはとてもいいわけがましいのですが、

質問される側の気持ちになると、うんざりする。勘弁してくれと思う。しかし質問する側は恐らく流れも何も分からず、目に付いた所を次から次に聞くしかないのだろうとも思う。それは流れも何も分かっていないからこそだと思う。ある程度の流れが(大雑把でも)分かれば、その中で今ここでやっている事が何か分かるから。

私が人に教える時は、大体の流れを説明する。そして後はその流れに沿って、体験させる。細かい事は後からになるが。どういう考え方をしてその流れを進めるかについて、仮体験(時には本体験)させる。ある意味、頭じゃなくて体で覚えさせる感覚に近い。

そしてその流れで仕事をしてみて、個々に分からない事が出てきた時、それが単純に作業ベース(全員共通)の事であれば、その場ですぐ教える。それこそマニュアル化できることであれば、作っておいて「これを読んでおけ」で終わり。


というのは、入社時とはじめての下版作業前、下版後、さらに第2回目の下版前、下版中、下版後とそのたびに下版の流れを紙に書いたものを渡して説明して、はじめての下版作業時にどういう流れで作業をしているかを実際に経験してもらって、第2回目の下版作業中には各作業ごとに段階を踏んで説明をしていたのです。そして、その説明中なのにもかかわらず「私はなにをすればいいんですか?」などと聞かれて、「あんた、私がいままで説明していたことなんにも聞いてなかったのね」とこちらがびっくりしたというか、あまりにショックを受けてしまい、そのショックをひきずったまま、あのエントリーを書くに至ったのです。

いや、別に忘れてしまうのはいいのです。

別にいいのですが、「え? 私そんなことなんにも聞いてません」というような顔をして同じ質問をされると、私は


 「これでこの説明はもう5回目なんだけど、この前の説明は忘れちゃったのかな〜?」


という前置きをしたい衝動に駆られるのですが、それを歯を食いしばって我慢し、


 「ええと、準備はよろしいでしょうか? これから私めが説明をさせていただきます」


と、いまではまるではじめての人にするようにていねいに説明をするようにしております。

それにいままでは「なんで1回説明したことを覚えていないんだ!?」と本当に腹を立てて、しばらく口を聞かなかったりしていたのですが、いまでは苦しい修行(?)を積んだおかげで、


まあ1か月前のことを覚えていないのはしょうがないというかそんなことは忘れて当然。


2週間前のことを覚えていないのも別にかまいません。そんなことを覚えているほうがおかしい。


1週間前のことを覚えていないのも、覚えなくてはならないことがたくさんあるのだから覚えていられるわけがない。


3日前のことを覚えていないというのは「私の説明が悪かったのだな。これから気をつけよう」と反省するようにして、


1日前のことを覚えていない場合には「ああ、これは完全に私の説明の仕方が悪かったのだ。これからは彼女の心にしっかりと残るように説明をしよう」と思いを新たにするようにしています。


そして、もし私が15分前にいったことを覚えていない、もしくは私が説明をした事実さえ時限の彼方に葬られてしまったときには、

後は悲しいかな、教える側の反復になる。相手はすぐ忘れるから。体感するまで進まないから。頭で分かったつもりになっていても、体感が無いとすぐに忘れるし、意味合いもズレてしまったりする。だから、繰り返し教えるしかない。


という件を思い出し、


 「相手はすぐに忘れるんだ。あとは反復なんだ」


と、なんでそれを覚えていないのかを小一時間ほど問いつめたい気持ちを抑えつつ、歯を食いしばってなにもなかったかのように説明をするようにしています。

あ、それと私、

・単純作業(マニュアル化が可能)
→教える、何度でも教える。体で覚えこむまで教える。
 マニュアルが作れるなら、作って渡す(見ながら頑張れ)。
 時間に余裕があるなら、教えながらそいつにマニュアルを作らせる。

・思考作業(マニュアル化不可能)
→考え方の例示と、会社として必要な結論だけ教える
 最初に自分を含めた数人のやり方を教えておく事で、材料は与える。
 後は、個人個人のやり方だから、考えるしかない。


の思考作業を教えるのは比較的得意なような気がしているのですが、単純作業の


>→教える、何度でも教える。体で覚えこむまで教える。


というのが理解できないというか、さっぱりわからんのです。

というのも、そもそも自分が同じことを何度もいわれるのがいやなのと、もし私が相手に同じことを何度も何度も聞いたら相手に「お前は人の話を聞いていないのか!!」と怒られても文句はいえないし、相手に「こいつは人の話をまったく聞いていない」と思われても仕方がないと思っているので、私は相手がいったことや教えてもらったことはできるかぎり1回で覚えるようにしているのですが、それ以上に「自分がされたらいやなことは相手にしない」という思いがあるので、「相手が覚えていなさそうだからといって何度も同じことをいったら向こうもいやだろうな」とも思っているのです。

ですから、いくら相手が覚えていないからといって何度も何度も同じ説明をし続けるのは「なんでこの人は1回で覚えないのだろう?」という思いよりも、「もし自分がこんなにくどくどと説明をされたらさぞやいやな思いをするだろうなあ」という思いのほうが強くなってしまい、途中から説明していること自体が苦痛でたまらなくなってしまうのです。

ただ、世の中にはいろんな人間がいて、私のように同じことを何度もいわれると苦痛な人間もいれば、同じことを何度いわれても苦痛ではない(というかむしろ何度でもいわれたい?)人間が存在しているというのは、やっとこ理解しました。

最後に

まずは全体の流れ、日々の単純作業を理解させる事。そこで「何が分からないか分からない」段階を超えさせようと考える。その次は試行錯誤しながら考えるしかない。自分が少しずつ分かるようになった時の事を思い出すと、こういう段階を踏んでいくと分かり易いと思うのだがどうだろうか?


ですが、これはおっしゃるとおりだと思います。

私も頭のなかでは理解していたつもりだったのですが、実際にはわかっていなかったというか、むりやり気がつかされないとわからなかったわけで、そういう意味でいうと彼女に感謝をしないといけないなと思いつつ、☆YAS!☆さんには貴重な時間を使って論理的にご指摘いただき、大変勉強になりました。どうもありがとうございました。

やっぱり人にモノを教えるのも、教えられるのもすべて反復なのだなと実感しております。